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せたな号懐かしいです。よく利用していました。ありがとうございます
かつてはよく利用されていて方に聴いて頂けて嬉しいです。乗った時は結構混んでいました。
急行せたなは、国縫で熱郛始発の普通列車と併結しますが、その熱郛始発列車の行き先は、急行せたなのやって来た瀬棚行。一度に解結と連結を両方こなさなくてはならず、苦労が偲ばれます。本州への連絡案内が、参考程度にと前置きしておきながら、ものすごく丁寧ですね。ネットもスマホもありませんが、こんな時代に生まれてみたかったものです。
青函連絡船に乗り換え、さらにその先の案内は、青森側より函館側の方が丁寧だった印象があります。
駅の待合室でお休みくださいのフレーズに暖か味を感じます。
その通りですね。今でもこんな放送を耳にすることがあるのでしょうか・・・
鉄道系動画たくさん見ましたが、懐かしさのあまり涙が出てきました。
コメント有難うございます。安い機材による録音ではありますが、懐かしさを感じていただけましたら何よりです。
青函航路健在の頃は、本州と北海道の連絡を中心にしたダイヤ編成だったそうです。特別急行、普通急行の案内に歴史の重みを感じる。
「せたな」自体は乗ったことありません。でも、父母が函館出身のため、札幌からの「北斗」「おおぞら」「おおとり」等は、小学校の夏休み・冬休みによく乗っていました。 函館に近づいた際の車内放送、こんな感じでしたね。 自分は函館下車なので連絡船への乗り継ぎはナシ。乗船名簿を受け取る人が羨ましかったのを覚えています。
親に連れられてどこかへ行った時、目的の駅で下車すると、いつも「もっと先まで乗ってみたい・・・」と思ったものでした。
この頃は青森発の普通列車でも一ノ関とか酒田とか、かなり遠くまで走ってたんですねえ…そして到着時間が軒並み21時とかでびっくりしてます。放送時点ではまだ10時台だというのに…
この当時、東北本線、奥羽本線は電化されていましたが、普通列車は気動車や客車ばかり。荷物車の関係でしょうが客車による普通列車は長距離が多かったですね。
青函が無くなる寸前に札幌から函館、そして東京まで鉄路で戻ってきました。瀬棚線というと長万部で乗換案内があります。函館に22時くらいにつく特急に乗ったのですが、その時間帯だと長万部の乗換は明朝になります。駅待合室でお待ちくださいのアナウンスがあり、長万部の次、国縫で瀬棚線の線路が大きく右にカーブしていったのを闇の中に見た気がします。あの頃の北海道はどこに行ってもキハ22がいて、珍しくもなんともなかったのですがいつの間にか消えてしまい、なつかしさを追い求めて勝田から那珂湊まで元留萌鉄道のキハに乗りました。キハ22,北海道を代表する車両でした・・・
確かに北海道と言えばキハ22だったですね。キハ22に乗ると、「ああ。また北海道に来たんだ」と嬉しくなったものでした。映画ぽっぽやでは撮影用にキハ40を不自然に改造していましたが、「せめてキハ22が1両くらいないのか・・・」と思ったものでした。
函館に遊びに行くときには上下急行せたなを利用していました。曲がったホームに2桟橋。ああ懐かしい。
今でも曲がったホームに当時の面影を残していますが、函館駅もすっかり変わってしまいましたね。
改めて、くりこま2号の足の速さに驚きます。5分後に青森を出る十和田1号に、仙台着の時点で約1時間半の差をつけている…同じ急行列車とは思えないダイヤですね。
気動車急行を追い抜く異色の電車急行でしたね。連絡船22便に接続する昼行特急がないので、青森→仙台間の特急に設定したかったのだと思いますが、当時は首都圏に直結しない特急は不人気だったと雑誌で読んだ記憶があります。
昔の国鉄は、色々な列車が走っていて最高すぎます。
急行列車が都市部と地方をきめ細かく結んでいましたね。ローカル線の普通列車が、本線に入って急行になる運用、なんとなく好きでした。
貴重な音源をアップして下さりありがとうございます。とても懐かしいです。
懐かしさを感じて頂けて何よりです。特に貴重とは思わないままUPしましたが、多くの方に楽しんで頂けて嬉しいです。
せたな号で大阪行きの案内とは凄いですね。しかしものすごくわかりやすい案内に感銘を受けますね、さすが国鉄。
本州側からだと、青森到着前の列車でこんなに丁寧な案内はなかったと思います。連絡船内で案内していましたので、差支えはなかったのでしょうね。
@@急行-宗谷 音源も良いですし、なんと言ってもローカルに徹したアナウンスを聞けるなんて嬉しくてしかたない!有名処はたくさんありますがこうしたローカル急行や普通列車のアナウンスはレア中のレア。ありがとうございます。
連絡船と接続が15分とかギリギリですね。あと青森乗り換えの案内も「ご参考までに」と言ってましたが、かなり詳しく放送してるのは面白いです。
確かに15分の乗り換えはきつそうですね。ダイヤ作成者も苦労されたことでしょう。乗り換え案内は本州側より、北海道側の方が丁寧だった印象があります。
@@急行-宗谷 さん、視聴させていただきました。やはり、国鉄時代 からギリギリか、 微妙に間に合わない乗り継ぎってどうしても出てしまいますよね‥‥仕方ナシお盆前半に、弾丸で北海道に行ってきましたが、函館本線岩見沢駅で、室蘭線の 追分方面の苫小牧行 に、乗り換えたくても4分半前に出てしまって次は2時間と40後とかあって東日本&北海道パスでは思ったように、全然各線に乗れませんでした‥‥。でもキハ40/ 系列に乗れたので、良かったですが‥‥留萌本線は、ちょっと来年度以降持ちそうにありませんね……😖💦 自己負担は拒否らしく留萌市がバス転換案を支持しましたので💧
枝線までにきめ細かく直通列車を設定していて余程現在のJRよりサービスが良い
@@かんかんた-v5l そもそも瀬棚線現存しないからね。
現在と比べて、この時代の車掌の乗り換えアナウンスは上手で分かりやすいですね。アナウンスの前にアルプスの牧場のメロディは旅情を誘いますね。
終点まで7〜8時間もかかって走る普通列車に驚く
このころの北海道の国鉄線は本線から別れる支線すなわちローカル線へも直通する急行がまめに設定されていた。この「せたな」、「江差」、「松前」、「らいでん」、「いぶり」等。しかし昭和53年のダイヤ改正を機に、廃止されてしまい、やがてはその路線そのものも廃止されて寂しい限り。瀬棚、江差は奥尻島への連絡船の玄関。離島へのアクセスもバスになり、こちらも寂しい限り。
北海道へはまだ飛行機が主な輸送手段になっていなかった時代、鉄道がその役割を担っていたことを示す貴重な記録です。車内放送が青函連絡と本州輸送を詳しく案内しているところから、それがよくわかります。ここで青函連絡松前丸が通常3時間50分のところ4時間かかっていたのですか。わたしも当時乗換時の緊張感を思い出しました。車内放送の丁寧な案内を頼りにしていた乗客が多かったと思います。今の自動放送ではとても案内は無理でしょう。それと電子音以前の車内チャイムとともに車掌の案内に人間味を感じさせます。
コメント有難うございます。運航時間が4時間というのは気が付きませんでした。新発見です。早速当時の時刻表を調べてみたところ、休航中の臨時便に3時間55分というのが一便ある他は全て3時間50分でした。なぜこの便だけが4時間なのかはわかりませんが、『松前丸』だからという理由ではない様子ですね。時刻表には貨物便の時刻は載っていませんが、貨物便も含めたダイヤで、桟橋の都合かなと勝手な想像をしています。
これも懐かしいです。急行せたなというチョイスが渋いですね(笑)「連絡船」の発音は本来平板のはずですが、「んらく」が一段上がって「せん」が下がるイントネーションは国鉄流ですね。青森方でも同じイントネーションで案内していたと記憶しています。「特別急行列車」「普通急行列車」という用語も今は昔ですねぇ。
『せたな』を選んだというよりも、録音した中では、連絡船とその先の接続案内が最も丁寧な内容でしたので。
函館近辺の車掌さんは、喋り方がみな丁寧なイメージあるなぁ。
同感です。連絡船と共に、北海道の入り口という誇りがあったのでしょうね。
放送が懇切丁寧ですね。普通急行、特別急行列車の言い回しに重みを感じます。
そういえば。普通急行、特別急行列車って言い方、結構していましたね。
日本海2号・・・大阪着7:49とあります。この列車と新潟発の「つるぎ」この二本は湖西線で日の出を迎えますが、その日の出のきれいだったこと・・・私は「つるぎ」で眺めることが出来ました。湖面を光の道が走る、その瞬間きれいでしたよ。その中で京都到着のアナウンスが流れる、これぞ旅行の醍醐味ですね。
夜行列車で迎える朝。昨夜とは違う景色の中。何とも言えない気分ですね。
35年位前に、夜行急行十和田に乗り、青函連絡船で函館港到着後、特急北斗の自由席獲得のため、函館駅でダッシュした事を思いだした(笑)
瀬棚線、需要がこの頃はあったんですねぇ~。いい時代だなぁ~。新幹線、確かに綺麗で便利だけど、この当時の移動&風情は、何とも言えない情緒がありましたよね…。😭
情緒では増収にならないのもわかりますが、鉄道の維持すら困難な時代になってしまうとは・・・長く生きていると、思いもよらない時代の流れを感じます。
@@急行-宗谷 もう今は、鉄道の時代ではない!!と、言われても何も言い返す事が出来ません…。悔しいですが…。💢
@@アイスぴの まぁ鉄道が全てなくなる事はないでしょうけど…一部ローカル線は終わってますね⁉️
お盆時期、青函連絡船がとても混雑して積み残しもあったので、青函連絡船だけはいつもグリーン指定席を購入してました。ただし、青森・函館発の列車の座席確保に駅構内をダッシュしてたのは、他の方のコメントと一緒です。船内のシャワールームは普通席用とグリーン席用にわかれていて、グリーン席用のシャワールームはきれいでした。あと、船内グリルの鮭三平汁定食は定番でした。
函館で連絡船を降りて、乗り換え列車まで急いだ記憶・・・。でもいつの頃か、気が付けば、急いでいるのは自分だけだったこと・・・。年々乗り換える人が減っていたのですね。連絡船も末期の頃になると、昔の賑わいが夢のようでした。
とても素敵な音声、本当にありがとうございます。全てが懐かしいですが、道南を朝出て上野着が特急利用でも真夜中、急行だと翌朝なんて交通モードが自分の学生時代に存在していたことに今更ながら驚きますね(笑)今これがあっても乗る体力ないだろうな...これからも新作を楽しみにしております!
本州からの旅行者にとって、函館到着前の案内を聞くと「連絡船に乗って、これで旅も終りか・・・」との淋しさを感じたものでした。一方、江差線に乗ったり、再び札幌方面へ向かう行程を組んでいた時は、函館到着前の案内を聞いても、他人事のようでした。自分の録音を聞くと、その時の情景や心理が思い出されます。
青函連絡船がなくなる寸前、札幌出張して帰りは飛行機キャンセルして「おおとり」でしたか・・乗って函館に行きまして。長万部に到着前、瀬棚線の案内は今でも覚えております。「次は長万部に着きます。・・・瀬棚線、国縫・瀬棚方面は明朝六時〇〇分の発車です。駅待合室でお待ちください・・・」長万部を出て、ぼーっと光る灯りの中、瀬棚線の線路が大きくカーブを描いて闇の中に消えていくのを見ました。旅情ひときわでしたね。どこに行ってもキハ22がいて、このころの国鉄、いろいろあったけどでも、楽しかったな。青函連絡船の乗換案内がまた良くてね・・
仙台人でした。北海道ワイドで、これはくりこま一択ですね。乗船名簿の用紙が配られるの、ホントに懐かしい。函館駅のダッシュも昨日のことのように思い出します。
初めての北海道旅行で、東北本線の車内で乗船名簿を受け取った時、「ああ、陸から離れるんだ」と、不安と期待を感じたものでした。
僕が生まれて2週間後くらいの日
青森からの接続列車に驚き。これが昼行列車の最終で その後は夜行列車
青函連絡船と共に青森駅も賑わっていましたね。もう遠い昔になってしまいました。
この時代にタイムワープして、連絡船から、普通列車一関行きに乗って、終点まで旧客を満喫したい。あの旧客のニス塗りの車内の匂いまで、蘇ってきます。国鉄バンザイ!
昔は旧型客車による長距離普通列車が結構ありましたね。一部区間を乗ることはあっても、通して乗っておこうとは思わなかったものですが・・・
青森を14時25分、特急はつかりが上野22時、くりこまで仙台21時、急行十和田は青森16時発で上野翌朝5時…。函館の連絡船接続が15分という設定は今考えても凄い。
函館で15分の接続は確かにギリギリですね。実はわたくしも乗り換えたのですが、当時の記憶があまりありません。多分、わき目もふらず、連絡船乗り場へ急ぎ足だったのでしょうね。お弁当などは連絡船内でも買えましたし・・・
青函連絡船一度だけ乗りました!青森から富山に帰るのに青森駅に着いたら急行きたぐにと特急白鳥が並んでいました!お金が高いけど、自分は白鳥に乗りました😅
昭和62年青函連絡船廃止直前に乗りましたが、青森での乗船名簿は便名は書かれてなく、どの船でも使えました。(実際は番号が書いてあり、呼び出しされるまでひたすら待ちましたが)函館からは便名がスタンプで押されていて、その便のみ有効でしたが、確実に乗れるとの、両方で扱いが違うのが面白かったです。
連絡船全盛期には、定員に達したら次の便に回されることもあったそうですね。その先の指定券を持っている人が優先的に乗船・・・というようなことが時刻表に載っていましたね。
この時代に移動してみたかった
もう戻らない時代に思いを馳せて頂ければ何よりです。
先週から登録させて頂きました。貴重な音源が懐かしく、編集もわかりやすく楽しいです。昭和53年の2〜3月、私も道内をフラフラ乗り鉄してました。あの時の、気動車の匂いまでが甦るようです。今後もアップを楽しみにしておりますが、ゆっくりマイペースで🆗です😊
暖かいコメントありがとうございます。適切な動画や写真がなく、苦し紛れの時刻表加工画像ですが、楽しんでいただける方がいらっしゃって嬉しいです。新作の公開はスローペースですが、気長にお付き合い願います。
ゆっくり魔理沙だぜ‼️
乗船名簿とか懐かしいですねぇそんなのもありましたね
名簿を書くと「船に乗るんだな」と思いました。万が一の時に身元がわかるようにですね……
緑色のもありましたね
昭和63年のフィーバー時、函館行き連絡船が自身が受験なのに満員御礼。余裕は取っていたけど改札の駅員さんにダメ元で『受験なんですが…』と言ったら色は忘れたが『すぐにこれ書いて!』って言ってくれ直近の船に乗れた。休息も取れおかげさまで、北大も🎉でした。たいした調べもせず対応していただいた駅員さんには今さらながら感謝です。
今はもう聞けない昭和の日本語ですね。
気が付けば昭和も遠くなってしまいました。当時は青函トンネルも新幹線も、遠い未来のことと思っていたのですが。
落ち着いた声と的確なアナウンスには、とても癒されホッとします。 この動画は、地理の勉強にもなります。ありがとうございました。 万年少年より 2021.10.6
急行せたなはこの時代もキハ22だったのでしょうか?
急行せたな初めて知りました😁
青森駅舎も新しくなってしまいました。また一つ昭和が消えました。津軽って急行なのにA寝台が連結されていたんですね。出世列車というだけのことはあります。
S56.8月に海峡ラーメン食べました。金がないから、いかづくし定食は無理でした。
船内でラーメンを食べただけでも、ちょっぴり贅沢をした気分になりました。たいていはお弁当を買って客室で食べたものです。
いかづくし定食あこがれでした
私が「せたな」の後に乗った際は、カレー🍛と鰻重しかなくて、親に無理言って鰻重食べました‼️
昭和雰囲気が、いい、乗ったことがないから、昔よかった。
唱和の雰囲気を感じていただけて良かったです。こちらの操作ミスで、違う返信文を載せてしまい、大変申し訳ありませんでした。
青森から上野に行く手段多すぎて悩む贅沢さよ。関西へも行けるし。まさか幹線が3セクでズタズタになろうとは想像もしなかった。日本は大きな物を失った気がする。
信越本線、東北本線、北陸本線が今、こんな姿になろうとは思いもよりませんでした。函館本線、根室本線もどうなってしまうのでしょうね。
信越本線は横川-軽井沢間の廃止でもはや通行することすら出来なくなってしまって本当に悲しいです。
でも横軽以外は線路はあるから仕方ないね…
停車駅が今の特急・北斗より少ないWW
「海峡ラーメン(みそ)」でキマリ!
おれはいかづくし定食!!
海峡ラーメンのどんぶり、青函連絡船廃業の時、もらったから、どこかにあるハズ(笑)
乗船名簿は洞爺丸事故以降の利用者安全第一で取った策しかし今の時代ならやれ“プライバシー”とか“個人情報”とやいのやいの五月蝿いんだろうな()
初めて乗船名簿を渡された時、「万が一の際、これで身元がわかるんだ・・・」と陸を離れることを実感しました。
今でも長距離フェリー&飛行機は情報提供必須です⁉️
@@psychedelicraspberry1457そんな事は知ってるプライバシー厨と効率厨へ皮肉を言っただけだ
急行せたなの車内放送は貴重ですね。そして青森からの乗り換え案内も行なっていたのですね。はつかり号が上野行きとはもう古い資料と思います。以上です。
いつの日か、はつかりの愛称が復活しませんかねぇ…
昔は大都市に午前中到着する列車があったね。通院のため。日本海だと 翌日到着か。
乗り換え案内の放送で上野、大阪、八戸、弘前とか北海道内の列車でこのような行先を聞くと当時は違和感がありました。またこれから連絡船に乗り換えて遠くへ行くんだなあという気になったものです。本州と比べると北海道の鉄道はひと昔前の感じの時代でした
当時は!青函トンネル未完成だったのが解ります〜
この頃は青函トンネルの完成を心待ちにしましたが、今では連絡船が懐かしいです。
急行〔せたな〕のスジは、瀬棚線廃止後も快速〔アイリス〕が受け継いでいましたが、新幹線開業と共に姿を消しましたね(;´∀`)
新幹線が札幌まで開業したら、どうなってしまうのでしょうね。内浦湾沿いの車窓、好きなのですが・・・
昭和50年3月、初めて見た雪景色の北海道。中でも列車から見た小沼と駒ヶ岳は強烈な印象でした! いさ鉄に頑張ってもらって森くらいまでは走らせてほしいですね。せっかくの気動車なんですから、非電化区間を走らないともったいない(´▽`*)
まだ…北海道に活気があった頃…石炭産業は斜陽だったが高速道路が未整備だった😅ローカル線も最後の華😅今は産業が地盤沈下観光産業ですら厳しい
流石、経営❎ 輸送⭕が使命のJR❎ JNR⭕!
実に懐かしく拝聴しました。1:35 「ふつうれっしゃ」の「つ」にアクセントが来るのが北海道流?2:42 エンジンの回転に合わせて微妙にノイズが乗るんでしょうか。そして3:05 乗船名簿の話が出ると、一気に緊張感というか、愈々陸地から離れるんだという言い知れぬ感慨が高まってくる。そのことを、昨日のように思い出しました。私の初の渡道は、松前丸が既に去った後、1987年のことでした。
コメントありがとうございます。懐かしんでいただけて幸いです。メカのことは疎いのですが、エンジンの回転によって微妙に変化する音が、スピーカーから出る車両があったようです。キハいくつかは調べませんでしたが……
0:53 沿線案内に函館空港載ってるの草私が乗った際は、運転士が運転台に入れてくれました(なんと走行中に)‼️今ならマスコミネタ&懲戒もの…
懐かしい、連絡船、乗船名簿、近時、佐渡汽船乗船名簿不要に
乗船名簿を書くと、「陸から離れるんだ…」と思いました。
うん !鉄の最高ー。
鉄分感じていただけて良かったです。
せたな号懐かしいです。よく利用していました。ありがとうございます
かつてはよく利用されていて方に聴いて頂けて嬉しいです。乗った時は結構混んでいました。
急行せたなは、国縫で熱郛始発の普通列車と併結しますが、その熱郛始発列車の行き先は、急行せたなのやって来た瀬棚行。
一度に解結と連結を両方こなさなくてはならず、苦労が偲ばれます。
本州への連絡案内が、参考程度にと前置きしておきながら、ものすごく丁寧ですね。
ネットもスマホもありませんが、こんな時代に生まれてみたかったものです。
青函連絡船に乗り換え、さらにその先の案内は、青森側より函館側の方が丁寧だった印象があります。
駅の待合室でお休みくださいのフレーズに暖か味を感じます。
その通りですね。今でもこんな放送を耳にすることがあるのでしょうか・・・
鉄道系動画たくさん見ましたが、懐かしさのあまり涙が出てきました。
コメント有難うございます。安い機材による録音ではありますが、懐かしさを感じていただけましたら何よりです。
青函航路健在の頃は、本州と北海道の連絡を中心にしたダイヤ編成だったそうです。特別急行、普通急行の案内に歴史の重みを感じる。
「せたな」自体は乗ったことありません。でも、父母が函館出身のため、札幌からの「北斗」「おおぞら」「おおとり」等は、小学校の夏休み・冬休みによく乗っていました。
函館に近づいた際の車内放送、こんな感じでしたね。
自分は函館下車なので連絡船への乗り継ぎはナシ。乗船名簿を受け取る人が羨ましかったのを覚えています。
親に連れられてどこかへ行った時、目的の駅で下車すると、いつも「もっと先まで乗ってみたい・・・」と思ったものでした。
この頃は青森発の普通列車でも一ノ関とか酒田とか、かなり遠くまで走ってたんですねえ…
そして到着時間が軒並み21時とかでびっくりしてます。放送時点ではまだ10時台だというのに…
この当時、東北本線、奥羽本線は電化されていましたが、普通列車は気動車や客車ばかり。
荷物車の関係でしょうが客車による普通列車は長距離が多かったですね。
青函が無くなる寸前に札幌から函館、そして東京まで鉄路で戻ってきました。瀬棚線というと長万部で乗換案内があります。函館に22時くらいにつく特急に乗ったのですが、その時間帯だと長万部の乗換は明朝になります。駅待合室でお待ちくださいのアナウンスがあり、長万部の次、国縫で瀬棚線の線路が大きく右にカーブしていったのを闇の中に見た気がします。あの頃の北海道はどこに行ってもキハ22がいて、珍しくもなんともなかったのですがいつの間にか消えてしまい、なつかしさを追い求めて勝田から那珂湊まで元留萌鉄道のキハに乗りました。キハ22,北海道を代表する車両でした・・・
確かに北海道と言えばキハ22だったですね。キハ22に乗ると、「ああ。また北海道に来たんだ」と嬉しくなったものでした。映画ぽっぽやでは撮影用にキハ40を不自然に改造していましたが、「せめてキハ22が1両くらいないのか・・・」と思ったものでした。
函館に遊びに行くときには上下急行せたなを利用していました。曲がったホームに2桟橋。ああ懐かしい。
今でも曲がったホームに当時の面影を残していますが、函館駅もすっかり変わってしまいましたね。
改めて、くりこま2号の足の速さに驚きます。
5分後に青森を出る十和田1号に、仙台着の時点で約1時間半の差をつけている…
同じ急行列車とは思えないダイヤですね。
気動車急行を追い抜く異色の電車急行でしたね。
連絡船22便に接続する昼行特急がないので、青森→仙台間の特急に設定したかったのだと思いますが、当時は首都圏に直結しない特急は不人気だったと雑誌で読んだ記憶があります。
昔の国鉄は、色々な列車が走っていて最高すぎます。
急行列車が都市部と地方をきめ細かく結んでいましたね。ローカル線の普通列車が、本線に入って急行になる運用、なんとなく好きでした。
貴重な音源をアップして下さりありがとうございます。とても懐かしいです。
懐かしさを感じて頂けて何よりです。特に貴重とは思わないままUPしましたが、多くの方に楽しんで頂けて嬉しいです。
せたな号で大阪行きの案内とは凄いですね。
しかしものすごくわかりやすい案内に感銘を受けますね、さすが国鉄。
本州側からだと、青森到着前の列車でこんなに丁寧な案内はなかったと思います。連絡船内で案内していましたので、差支えはなかったのでしょうね。
@@急行-宗谷 音源も良いですし、なんと言ってもローカルに徹したアナウンスを聞けるなんて嬉しくてしかたない!有名処はたくさんありますがこうしたローカル急行や普通列車のアナウンスはレア中のレア。ありがとうございます。
連絡船と接続が15分とかギリギリですね。あと青森乗り換えの案内も「ご参考までに」と言ってましたが、かなり詳しく放送してるのは面白いです。
確かに15分の乗り換えはきつそうですね。ダイヤ作成者も苦労されたことでしょう。
乗り換え案内は本州側より、北海道側の方が丁寧だった印象があります。
@@急行-宗谷 さん、
視聴させていただきました。
やはり、国鉄時代 からギリギリか、 微妙に間に合わない乗り継ぎってどうしても出てしまいますよね‥‥仕方ナシ
お盆前半に、弾丸で北海道に行ってきましたが、函館本線岩見沢駅で、室蘭線の 追分方面の苫小牧行 に、乗り換えたくても4分半前に出てしまって次は2時間と40後とかあって東日本&北海道パスでは思ったように、全然各線に乗れませんでした‥‥。
でもキハ40/ 系列に乗れたので、良かったですが‥‥留萌本線は、ちょっと来年度以降持ちそうにありませんね……😖💦 自己負担は拒否らしく留萌市がバス転換案を支持しましたので💧
枝線までにきめ細かく直通列車を設定していて余程現在のJRよりサービスが良い
@@かんかんた-v5l そもそも瀬棚線現存しないからね。
現在と比べて、この時代の車掌の乗り換えアナウンスは上手で分かりやすいですね。アナウンスの前にアルプスの牧場のメロディは旅情を誘いますね。
終点まで7〜8時間もかかって走る普通列車に驚く
このころの北海道の国鉄線は本線から別れる支線すなわちローカル線へも直通する急行がまめに設定されていた。この「せたな」、「江差」、「松前」、「らいでん」、「いぶり」等。しかし昭和53年のダイヤ改正を機に、廃止されてしまい、やがてはその路線そのものも廃止されて寂しい限り。瀬棚、江差は奥尻島への連絡船の玄関。離島へのアクセスもバスになり、こちらも寂しい限り。
北海道へはまだ飛行機が主な輸送手段になっていなかった時代、鉄道がその役割を担っていたことを示す貴重な記録です。
車内放送が青函連絡と本州輸送を詳しく案内しているところから、それがよくわかります。ここで青函連絡松前丸が通常3時間50分のところ4時間かかっていたのですか。わたしも当時乗換時の緊張感を思い出しました。車内放送の丁寧な案内を頼りにしていた乗客が多かったと思います。今の自動放送ではとても案内は無理でしょう。それと電子音以前の車内チャイムとともに車掌の案内に人間味を感じさせます。
コメント有難うございます。運航時間が4時間というのは気が付きませんでした。新発見です。
早速当時の時刻表を調べてみたところ、休航中の臨時便に3時間55分というのが一便ある他は全て3時間50分でした。
なぜこの便だけが4時間なのかはわかりませんが、『松前丸』だからという理由ではない様子ですね。
時刻表には貨物便の時刻は載っていませんが、貨物便も含めたダイヤで、桟橋の都合かなと勝手な想像をしています。
これも懐かしいです。急行せたなというチョイスが渋いですね(笑)
「連絡船」の発音は本来平板のはずですが、「んらく」が一段上がって「せん」が下がるイントネーションは国鉄流ですね。
青森方でも同じイントネーションで案内していたと記憶しています。
「特別急行列車」「普通急行列車」という用語も今は昔ですねぇ。
『せたな』を選んだというよりも、録音した中では、連絡船とその先の接続案内が最も丁寧な内容でしたので。
函館近辺の車掌さんは、喋り方がみな丁寧なイメージあるなぁ。
同感です。連絡船と共に、北海道の入り口という誇りがあったのでしょうね。
放送が懇切丁寧ですね。普通急行、特別急行列車の言い回しに重みを感じます。
そういえば。普通急行、特別急行列車って言い方、結構していましたね。
日本海2号・・・大阪着7:49とあります。この列車と新潟発の「つるぎ」この二本は湖西線で日の出を迎えますが、その日の出のきれいだったこと・・・私は「つるぎ」で眺めることが出来ました。湖面を光の道が走る、その瞬間きれいでしたよ。その中で京都到着のアナウンスが流れる、これぞ旅行の醍醐味ですね。
夜行列車で迎える朝。昨夜とは違う景色の中。何とも言えない気分ですね。
35年位前に、夜行急行十和田に乗り、青函連絡船で函館港到着後、特急北斗の自由席獲得のため、函館駅でダッシュした事を思いだした(笑)
瀬棚線、需要がこの頃はあったんですねぇ~。
いい時代だなぁ~。
新幹線、確かに綺麗で便利だけど、この当時の移動&風情は、何とも言えない情緒がありましたよね…。😭
情緒では増収にならないのもわかりますが、鉄道の維持すら困難な時代になってしまうとは・・・
長く生きていると、思いもよらない時代の流れを感じます。
@@急行-宗谷
もう今は、鉄道の時代ではない!!
と、言われても何も言い返す事が出来ません…。
悔しいですが…。💢
@@アイスぴの まぁ鉄道が全てなくなる事はないでしょうけど…一部ローカル線は終わってますね⁉️
お盆時期、青函連絡船がとても混雑して積み残しもあったので、青函連絡船だけはいつもグリーン指定席を購入してました。ただし、青森・函館発の列車の座席確保に駅構内をダッシュしてたのは、他の方のコメントと一緒です。船内のシャワールームは普通席用とグリーン席用にわかれていて、グリーン席用のシャワールームはきれいでした。あと、船内グリルの鮭三平汁定食は定番でした。
函館で連絡船を降りて、乗り換え列車まで急いだ記憶・・・。
でもいつの頃か、気が付けば、急いでいるのは自分だけだったこと・・・。
年々乗り換える人が減っていたのですね。連絡船も末期の頃になると、昔の賑わいが夢のようでした。
とても素敵な音声、本当にありがとうございます。全てが懐かしいですが、道南を朝出て上野着が特急利用でも真夜中、急行だと翌朝なんて交通モードが自分の学生時代に存在していたことに今更ながら驚きますね(笑)今これがあっても乗る体力ないだろうな...これからも新作を楽しみにしております!
本州からの旅行者にとって、函館到着前の案内を聞くと「連絡船に乗って、これで旅も終りか・・・」との淋しさを感じたものでした。
一方、江差線に乗ったり、再び札幌方面へ向かう行程を組んでいた時は、函館到着前の案内を聞いても、他人事のようでした。自分の録音を聞くと、その時の情景や心理が思い出されます。
青函連絡船がなくなる寸前、札幌出張して帰りは飛行機キャンセルして「おおとり」でしたか・・乗って函館に行きまして。長万部に到着前、瀬棚線の案内は今でも覚えております。「次は長万部に着きます。・・・瀬棚線、国縫・瀬棚方面は明朝六時〇〇分の発車です。駅待合室でお待ちください・・・」長万部を出て、ぼーっと光る灯りの中、瀬棚線の線路が大きくカーブを描いて闇の中に消えていくのを見ました。旅情ひときわでしたね。どこに行ってもキハ22がいて、このころの国鉄、いろいろあったけどでも、楽しかったな。青函連絡船の乗換案内がまた良くてね・・
仙台人でした。北海道ワイドで、これはくりこま一択ですね。乗船名簿の用紙が配られるの、ホントに懐かしい。函館駅のダッシュも昨日のことのように思い出します。
初めての北海道旅行で、東北本線の車内で乗船名簿を受け取った時、「ああ、陸から離れるんだ」と、不安と期待を感じたものでした。
僕が生まれて2週間後くらいの日
青森からの接続列車に驚き。
これが昼行列車の最終で その後は
夜行列車
青函連絡船と共に青森駅も賑わっていましたね。もう遠い昔になってしまいました。
この時代にタイムワープして、連絡船から、普通列車一関行きに乗って、終点まで旧客を満喫したい。
あの旧客のニス塗りの車内の匂いまで、蘇ってきます。
国鉄バンザイ!
昔は旧型客車による長距離普通列車が結構ありましたね。一部区間を乗ることはあっても、通して乗っておこうとは思わなかったものですが・・・
青森を14時25分、特急はつかりが上野22時、くりこまで仙台21時、急行十和田は青森16時発で上野翌朝5時…。函館の連絡船接続が15分という設定は今考えても凄い。
函館で15分の接続は確かにギリギリですね。実はわたくしも乗り換えたのですが、当時の記憶があまりありません。多分、わき目もふらず、連絡船乗り場へ急ぎ足だったのでしょうね。お弁当などは連絡船内でも買えましたし・・・
青函連絡船
一度だけ乗りました!
青森から富山に帰るのに
青森駅に着いたら
急行きたぐにと
特急白鳥が並んでいました!
お金が高いけど、自分は白鳥に乗りました😅
昭和62年青函連絡船廃止直前に乗りましたが、青森での乗船名簿は便名は書かれてなく、どの船でも使えました。
(実際は番号が書いてあり、呼び出しされるまでひたすら待ちましたが)
函館からは便名がスタンプで押されていて、その便のみ有効でしたが、確実に乗れるとの、
両方で扱いが違うのが面白かったです。
連絡船全盛期には、定員に達したら次の便に回されることもあったそうですね。
その先の指定券を持っている人が優先的に乗船・・・というようなことが時刻表に載っていましたね。
この時代に移動してみたかった
もう戻らない時代に思いを馳せて頂ければ何よりです。
先週から登録させて頂きました。
貴重な音源が懐かしく、編集もわかりやすく楽しいです。
昭和53年の2〜3月、私も道内をフラフラ乗り鉄してました。
あの時の、気動車の匂いまでが甦るようです。
今後もアップを楽しみにしておりますが、ゆっくりマイペースで🆗です😊
暖かいコメントありがとうございます。
適切な動画や写真がなく、苦し紛れの時刻表加工画像ですが、楽しんでいただける方がいらっしゃって嬉しいです。
新作の公開はスローペースですが、気長にお付き合い願います。
ゆっくり魔理沙だぜ‼️
乗船名簿とか懐かしいですねぇ
そんなのもありましたね
名簿を書くと「船に乗るんだな」と思いました。万が一の時に身元がわかるようにですね……
緑色のもありましたね
昭和63年のフィーバー時、函館行き連絡船が自身が受験なのに満員御礼。余裕は取っていたけど改札の駅員さんにダメ元で『受験なんですが…』と言ったら色は忘れたが『すぐにこれ書いて!』って言ってくれ直近の船に乗れた。休息も取れおかげさまで、北大も🎉でした。たいした調べもせず対応していただいた駅員さんには今さらながら感謝です。
今はもう聞けない昭和の日本語ですね。
気が付けば昭和も遠くなってしまいました。当時は青函トンネルも新幹線も、遠い未来のことと思っていたのですが。
落ち着いた声と的確なアナウンスには、とても癒されホッとします。
この動画は、地理の勉強にもなります。ありがとうございました。
万年少年より 2021.10.6
急行せたなはこの時代もキハ22だったのでしょうか?
急行せたな初めて知りました😁
青森駅舎も新しくなってしまいました。また一つ昭和が消えました。津軽って急行なのにA寝台が連結されていたんですね。出世列車というだけのことはあります。
S56.8月に海峡ラーメン食べました。金がないから、いかづくし定食は無理でした。
船内でラーメンを食べただけでも、ちょっぴり贅沢をした気分になりました。
たいていはお弁当を買って客室で食べたものです。
いかづくし定食あこがれでした
私が「せたな」の後に乗った際は、カレー🍛と鰻重しかなくて、親に無理言って鰻重食べました‼️
昭和雰囲気が、いい、乗ったことがないから、昔よかった。
唱和の雰囲気を感じていただけて良かったです。こちらの操作ミスで、違う返信文を載せてしまい、大変申し訳ありませんでした。
青森から上野に行く手段多すぎて悩む贅沢さよ。関西へも行けるし。
まさか幹線が3セクでズタズタになろうとは想像もしなかった。日本は大きな物を失った気がする。
信越本線、東北本線、北陸本線が今、こんな姿になろうとは思いもよりませんでした。
函館本線、根室本線もどうなってしまうのでしょうね。
信越本線は横川-軽井沢間の廃止でもはや通行することすら出来なくなってしまって本当に悲しいです。
でも横軽以外は線路はあるから仕方ないね…
停車駅が今の特急・北斗より少ないWW
「海峡ラーメン(みそ)」でキマリ!
おれはいかづくし定食!!
海峡ラーメンのどんぶり、青函連絡船廃業の時、もらったから、どこかにあるハズ(笑)
乗船名簿は
洞爺丸事故以降の利用者安全第一で取った策
しかし
今の時代ならやれ“プライバシー”とか“個人情報”と
やいのやいの五月蝿いんだろうな()
初めて乗船名簿を渡された時、「万が一の際、これで身元がわかるんだ・・・」と陸を離れることを実感しました。
今でも長距離フェリー&飛行機は情報提供必須です⁉️
@@psychedelicraspberry1457そんな事は知ってる
プライバシー厨と効率厨へ
皮肉を言っただけだ
急行せたなの車内放送は貴重ですね。そして青森からの乗り換え案内も行なっていたのですね。はつかり号が上野行きとはもう古い資料と思います。以上です。
いつの日か、はつかりの愛称が復活しませんかねぇ…
昔は
大都市に午前中到着する列車があったね。
通院のため。
日本海だと 翌日到着か。
乗り換え案内の放送で上野、大阪、八戸、弘前とか北海道内の列車でこのような行先を聞くと当時は違和感がありました。またこれから連絡船に乗り換えて遠くへ行くんだなあという気になったものです。本州と比べると北海道の鉄道はひと昔前の感じの時代でした
当時は!青函トンネル未完成だったのが解ります〜
この頃は青函トンネルの完成を心待ちにしましたが、今では連絡船が懐かしいです。
急行〔せたな〕のスジは、瀬棚線廃止後も快速〔アイリス〕が受け継いでいましたが、新幹線開業と共に姿を消しましたね(;´∀`)
新幹線が札幌まで開業したら、どうなってしまうのでしょうね。
内浦湾沿いの車窓、好きなのですが・・・
昭和50年3月、初めて見た雪景色の北海道。中でも列車から見た小沼と駒ヶ岳は強烈な印象でした! いさ鉄に頑張ってもらって森くらいまでは走らせてほしいですね。せっかくの気動車なんですから、非電化区間を走らないともったいない(´▽`*)
まだ…北海道に活気があった頃…
石炭産業は斜陽だったが
高速道路が未整備だった😅
ローカル線も最後の華😅
今は産業が地盤沈下
観光産業ですら厳しい
流石、経営❎ 輸送⭕が使命のJR❎
JNR⭕!
実に懐かしく拝聴しました。
1:35 「ふつうれっしゃ」の「つ」にアクセントが来るのが北海道流?
2:42 エンジンの回転に合わせて微妙にノイズが乗るんでしょうか。
そして3:05 乗船名簿の話が出ると、一気に緊張感というか、愈々陸地から離れるんだという言い知れぬ感慨が高まってくる。そのことを、昨日のように思い出しました。
私の初の渡道は、松前丸が既に去った後、1987年のことでした。
コメントありがとうございます。懐かしんでいただけて幸いです。
メカのことは疎いのですが、エンジンの回転によって微妙に変化する音が、スピーカーから出る車両があったようです。キハいくつかは調べませんでしたが……
0:53 沿線案内に函館空港載ってるの草
私が乗った際は、運転士が運転台に入れてくれました(なんと走行中に)‼️今ならマスコミネタ&懲戒もの…
懐かしい、連絡船、乗船名簿、近時、佐渡汽船乗船名簿不要に
乗船名簿を書くと、「陸から離れるんだ…」と思いました。
うん !鉄の最高ー。
鉄分感じていただけて良かったです。